母は先日,84 となった。
まだ,かくしゃくとしており, 元気にグランドゴルフをしに,少し離れた公園に自転車で出かけている。
ただ,やはり背が曲がり, 歩き方も老人のそれとなっている。
一緒に住んではいないので, たまに会いに行く。
自分が人生の節目の年となり,最近あった友人との別れを思うと , どうしてもこれまで考えてもいなかった寿命について考えてしまう。
それであるなら,母はいくつまで生きるのだろう。100歳としてもあと16年だ。
若い時分の1年と老いてからの1年では早さが違う。
若く濃厚な1年は永く, 老いての1年は短い。
母は若いころから情が強い人であった。
我が家は別に由緒ある旧家でもなく, 下町の印刷工場を営んでいた。
祖父母から始まって起こした商売で,私が物心ついたころは営業,事務職,職人を入れて野球試合が できるほど繁盛していた。
この後,石油ショック等で衰退していき, 最終的には父母のみの商売となり,父の希望もあり,息子3人共に跡を継がなかった。
夜店の金魚売りに始まり, 自転車ひとつの印刷バイヤーから身を起こした厳しい祖父母に鍛えられた母は朝から夜まで雇人の昼食,家族に住込み職人を加えた夕食まで毎日賄いを行っていた。
とにかく商売をやっているので,家の中も忙しい。
よく鬼のような祖母に叱られていたことを微かに覚えている。人のいない納戸で泣いているのを見たこともある。
その環境のせいか, 元々の性格だったのか気が強く,長男であった私は幼いころからよく叩かれた。
悪ガキ
私が聞き分けのない子供であったと思う。自覚もある。
自家の屋根どころか隣の屋根伝いに材木所倉庫に忍び込んだり,近所の子を泣かせたりしていた記憶は残っている。
そのため尻やら足やら体中いつも赤アザだらけだった。ホウキはともかくハタキは細い鞭のようなもので,これで叩かれると激痛が走り,ミミズ腫れになる。
幸い,住居が工場の2階にあり,各部屋と二本の廊下が繋がっていて,周回できる構造になっていた。
おかげで,4,5歳のころからは逃げ足が速くなり,ハタキやホウキを持って追いかけて来る母と延々 と追いかけあいになり,毎日必死な鬼ごっこをしていた。
年を追うにつれ,何時しかそういうことも無くなっていった。
私は鬼子で,そのころから家から独立することをいつも思っていた。
18になり家を出た。
試験を受け就職し,夜間大学に通った。
小料理屋で
先週末に,コロナウィルスの被害状況が警戒自粛時期より高くなってきていた。
老人には危ないので,私は好物の寿司でも差し入れしようと思っていた。
だが,母は外食がいいと言う。なんでも友人が新しく開けた店に行きたいとのこと。
先週,末の弟と二人で行ったことは聞いていたが,経営が厳しいのを応援したいようだ。
日を代え,今日仕事が終わってから一緒に行った。
小さなこじんまりとした店で,肴は美味い。友人であるおかみさんと息子のご主人に挨拶をしながらも母は何やら誇らしげだ。
多分自分の何人もの子供を,立ち代わり連れてきているのが嬉しいのだろう。
他に客はそれほどおらず,カウンター席で酒を飲みながら昔話に花が咲いた。
祖母が厳しく育児に余裕がなかったこと。
父のこと。商売が上手くいかなくなり実家の長男に何回も借金に行ったこと。
我が家にどのような経緯で嫁いできたのか。今まで聞いたことのない話まで聞いた。
弟たちが生まれていない時に,仕事が片付いた後,父と私と母とでカブスクーターに3人乗りして串カツ屋や縁日にに行ったこと。
母は苦労話を話しながらも楽しそうであった。私も楽しかった。
帰りに薬湯のみやげを持たせ,タクシーに乗せ,見送った。
母の生きざまを,母の本音を初めて知った。
次第に小さくなるタクシーを見ながら
あの母がいたから,今の私がいるのだと今更ながらに感じた。
ありがとうな。
いつまでも元気でいてや。お母さん。